第4章 浮気相手の挑発、彼女に離婚を勧める
南坂海乃は、置き去りにするように聞き流し、取り合う気にもなれず、壁に手をつきながらゆっくりと前へ進んだ。
背後から、だんだん近づいてくる足音。続いて男の低い声が落ちてくる。
「南坂海乃? 止まれ!」
海乃は足を止め、瞳の奥で渦巻くものを押し殺したまま、無表情でゆっくり振り返る。
「何か用?」
さっき電話をかけたとき、黒谷優はまさにこんなふうに返してきた。
「お前……」
目の前の女の、あまりにも痛々しい有様を認めた瞬間、黒谷優の瞳がきゅっと縮む。息の仕方さえ忘れたように固まった――その背後で、佐藤詩乃が声を上げた。
「姉さん?」
そして隣にいた黒谷楓花も、海乃の姿を見た途端に呆然と立ち尽くし、しばらくしてようやく声を取り戻す。
「ママ、どうしてケガしてるの?」
……父娘でも、私の安否を気にすることくらいはあるんだ。
胸の奥がほんの少し揺れた。けれど海乃は、さっき楓花が詩乃に向かって『自分のママになって』と言ったことを、忘れられるはずもない。
すぐに表情を平らに戻し、淡々と言う。
「車にぶつかられただけ。大丈夫だから、もう行くね」
「待て」
黒谷優は眉を寄せ、大股で近づいてくる。海乃の静かな視線に正面からぶつかり、青白い顔を見た途端、胸の奥が妙に詰まった。
「さっき電話してきたのは、そのことか? どうして最初に言わない。詩乃の検査に付き添ってて、手が離せなかったんだ」
海乃は黙って聞いた。心はとっくに麻痺している。
言ったところで、結局は自分が惨めになるだけだ。
黒谷優の中で一番は、いつだって佐藤詩乃。彼女の用事が最優先――自分は後回し。
「うん。それで、他に用は?」
あまりに冷めた返事に、黒谷優の腹の底から名のない苛立ちが湧き上がる。眉間に皺を刻み、不機嫌を隠そうともしない。
「今度は何の拗ね方だ? お前がちゃんと説明しなかったんだろ。俺を責めてるのか?」
――もう説明はした。だから、これ以上何を求める。
そう言外に押しつけてくるような、高いところから見下ろす態度。まるで情けをかけてやっているみたいに。
海乃は、笑いたくなった。目つきが少しずつ冷え、刃のように尖っていく。
「私が話す時間、くれた?」
電話を切るのを急いだのは彼のほうなのに、今さら「言わなかった」と責める。
滑稽で、腹立たしくて、どうしようもない。
黒谷優は言葉に詰まり、さらに眉を寄せたまま黙って彼女を睨む。
楓花が我に返り、短い足で駆け寄ってくる。血のついた海乃の服の裾をつまみかけ、ぴたりと止まって、そっと手を引っ込めた。
氷のような母の顔色をうかがいながら、か細い声で言う。
「ママ、ごめんなさい。さっき、あんな言い方しちゃだめだった。怒らないで……?」
海乃は見逃さなかった。さっき楓花の目に一瞬だけ走った、嫌悪の色。
黒谷優とそっくりの眉と目を見下ろしながら、声色は変えない。
「楓花は悪くないよ。邪魔した私が悪いだけ」
それだけ置き捨て、父娘を一度も振り返らず背を向ける。
動きは遅い。けれど背中は、冷たく、決然としていた。
「ママ!」
海乃の背中を見送った楓花の胸が、理由もなくざわつく。何か大事なものを失ってしまいそうで、思わず追いかけようとする――が、横から黒谷優に抱き上げられた。
冷たい眉目に苛立ちを押し込み、声は不機嫌に尖る。
「放っておけ。ここ数日、やけに刺々しいんだ。自分で反省して、妻として、母親としてどうあるべきか考えろ」
佐藤詩乃が、いかにも困ったふうに歩み寄り、ため息まじりに言う。
「そんな言い方しないで。姉さん、事故でケガして気持ちが落ちてるだけよ。優くんが、ちゃんとなだめてあげないと」
「俺がなだめてないって言うのか!?」
その言葉が火種になり、黒谷優の怒りが噴き出す。
「俺が甘やかしすぎたんだ。だから調子に乗って、俺に当たるだけじゃなく楓花にも冷たい。あれはやりすぎだろ!」
背後で交わされる声が耳に刺さるたび、海乃の顔色はさらに白くなった。瞳の奥は冷えきって、荒れ果てた空き地みたいに何もない。
唇の端が自嘲の形に歪む。
私が、やりすぎ?
過剰なのは、いったい誰だろう。
愛されない人間の目には、事故で傷つくことさえ、こちらの落ち度に映るらしい。
彼の軽い言い訳に合わせて笑顔を作らなかっただけで、「甘え」だの「増長」だのと断じられる。
――この瞬間、南坂海乃の心は、完全に死んだ。
トイレを出ると、洗面台の前に佐藤詩乃がいた。手を洗い、ペーパーで水気を拭いながら、横目で海乃を睨みつけ、薄く笑う。
「ほんと、かわいそう。事故であんなケガしてるのに、旦那は知らん顔。別の女に付きっきりで優しくしてるなんて」
「姉さん、私が姉さんだったら、とっくに離婚してる」
海乃は冷ややかに一瞥してから洗面台へ行き、蛇口をひねって手を洗う。声音には嘲りが混じった。
「それで? そんなに私に離婚してほしいなら、あなたが彼に言えばいいじゃない」
核心を突かれたのだろう、詩乃の顔色が変わる。
「私は姉さんのために、体面を残してあげようとしてるの! なのに、何その言い方……!」
海乃は眉をわずかに上げ、手についた水滴を軽く払って顔を上げる。笑うようで笑っていない目。
「へえ、そう」
「だったら、彼にあなたを娶らせれば?」
「……っ」
海乃は相手にする気もなく、鼻で笑う。
「役立たず。鏡でも見てきなよ。今の自分、道化みたいだって」
言い捨てて踵を返す。余計な視線すらくれてやらない。
……笑える話だ。もう、取り繕うことすらしなくなったらしい。
詩乃は去っていく背中を睨み、悔しさに足を踏み鳴らした。何か思い出したようにスマホを取り出し、電話をかける。
「アイツ、調子に乗りすぎ。ちゃんと一回、痛い目見せて」
南坂海乃が病室へ戻り、ドアを押し開ける。
中には、窓際に立つ黒谷優がいた。スマホで通話中だ。開閉の音に気づき、振り返って海乃をじっと見る。
通話を切ると、大股で近づいてきて、こちらを支えようと手を伸ばす。けれど海乃は、それを察して静かに身を引いた。
「どうしてここにいるの? 佐藤詩乃のところに行けばいいのに」
黒谷優は小さく眉を寄せる。海乃がゆっくりとベッド端に腰を下ろすのを見届け、息を整えてから椅子を引き、座った。
珍しく、気遣うような声。
「……痛むか」
急にどうしたのだろう。
海乃は訝しげに見上げた。
「何が言いたいの?」
さっき友人と電話し、海乃がかつて自分のために酒をかばってケガをしたことを知った――その話が、黒谷優の胃のあたりに重く沈んでいる。
唇を結び、少しだけ声を和らげた。
「もうすぐお前、二十五の誕生日だろ。誕生日パーティーを開こうと思う。どうだ」
海乃は一瞬、目を瞬かせた。四日後が自分の誕生日だと思い出す。
自分と佐藤詩乃の誕生日は近い。佐藤家が詩乃を養女にした理由のひとつも、それだった。
――この三人で過ごす、最後の誕生日になるのだろう。
「……いいよ」
